司馬遼太郎の「坂の上の雲」をNHKドラマで見た人は多いだろう。
美しい山上の道が、光る雲へと続いていくエンディング。
今回歩いたのはまさにその道。
白馬大池から白馬岳へのルートの途に、小蓮華山(2766m)がある。
駅前で手にしたパンフレットで、この小蓮華山が、上述の映像のロケ地であると記されていた。
私はそれを偶然目にするまで、まったく知らなかったから、
あこがれを誘うあの道が自分が歩くルートにあると知って驚いた。
いつか歩いてみたいと思っていた道が早くも目の前に現れている。
出会いというものは人であれ物であれ、こんな風に予告もなく現れるものだ。
白馬大池山荘の朝。窓の外には厚いガスが広がっている。
山荘前のテン場では色とりどりのテントが手際よくたたまれてゆき
ゴアテックスに身を包んだ登山グループたちが出発の準備を整えている。
私は5時に朝食を摂り、5時半にさっさと出発。
このあたりも一人なので気楽なもの。ぐずぐずしない。
行く手は既に森林限界を超えた美しい超越の地となっており
巨大な鯨のようにゆっくり進む雲の真中を、足元を確かめつつザクザクと進む。
時折雲の切れ間に遠く近く、雪を湛えた山の腹が白く光る。
小気味良く登りを楽しみ、軽く体が汗ばんできたところで振り返ると
白馬大池は早や、はるか下方に湖面を湛えている。
湖岸北、白馬大池山荘の赤い屋根が小さい。
小蓮華山へ続く登りは雷鳥坂と呼ばれている。
茂みの向こう側からひょこひょこと雷鳥が現れそうな雰囲気がいかにも漂っていて楽しい。
日本海側からの雲がここで雨を降らすのだろう。このあたりは高山植物も多い。
コマクサ、チングルマたちが高所の風にひっきりなしに吹かれて揺れている。
朝露を受けて細かな水滴をダイヤのように散りばめている花々。
天上にはイワツバメが舞う。空気はどこまでも冷たく、静か。
このような道が「坂の上の雲」の道なのだった。
雲の中に入ったり出たりしながら、いつまでも続いてほしい道を登る。
頂上に鉄の剣が指された小蓮華山を過ぎると
新潟・富山・長野の境となる三国境という地に至る。
ここから1時間もせずに白馬岳山頂にたどり着くが悪天候のため眺望は得られず。
この先白馬三山と呼ばれる杓子岳、鑓ヶ岳を歩いても良いのだが、
小蓮華ルートの楽しさが心にあって、歩を進めるのが惜しい気もする。
白馬山荘で少し休んでからもう一度白馬岳を目指してみようと思い、
小一時間ほど小屋の部屋で横になる。
相部屋の人々が入ってくる音でまどろみから醒めると、なんと窓の外の雲に切れ間が。
鉛色の雲が流れ飛び、澄んだ青い空が高く広がり始めている。
ああ、待っていて良かった。
いま白馬岳に登ればきっと美しい景色がある。
ザックから簡単な装備だけ取り出して身軽に登れば山荘から15分で山頂に着く。
登っているうちにも空はみるみる晴れて、さらに昂揚する。
西側はゆるやかな傾斜が広がるが
東側はきりたった崖のような山頂である。
何匹ものツバメたちが喜びの表現のように美しい弧を描いて高く低く飛んでいる。
360度に広がる眺望を見渡し、顔を真上に向け、瞳でツバメを追っているうちに
崖に落っこちそうになり、しりもちを着く。
しばらく崖のきわで、そのままぼうっとしている。
うっかりと死にそうになった。
ばかだなあ、と自分を叱りながら、
でもその後で、じんわりと幸福に包まれる。
白馬岳(2932m)は日本百名山のひとつ。
でも私には山の価値は百名山であることには由来しない。
歩いた道のり。雨風を受けて咲く花や息づく動物たち、山を包む大気そのものを含めての、自然というものの価値。
そしてその大いなる自然と、自然のごく一部である人が関わるという価値なのだ。
私にとってはこの白馬登山は白馬岳にあるのではなく、
さみしげな暗い湿原の中に、
山を愛する人々の言葉の中に、
人知れず揺れているワタスゲの白い穂の中に、
イワツバメが空に描く円の中にある。
坂の上の雲の主人公達には目的地があったのだろうか?
彼らもまた、時代の昂揚の中に生きていた。
隣に死があり、孤独があったが、同時に
おおきな何かの中に生きているという魂の充実があっただろう。
それは彼らの生き方、平坦ではない道を自分の足で歩くという
意志と行為から生まれる価値なのだろう。
私は白馬山荘に一泊した後、
天候悪化の判断により白馬三山の縦走はあきらめて
翌朝早々に白馬大雪渓を下って下山した。
惜しい気持ちはない。
山は決して動かずに、また何者かが訪ねてくる日が来るのを
何千年も、何万年も待っている。
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