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2010年11月アーカイブ

秋の鎌倉・逗子・葉山へ.gif

今日はちょっと遠くまで車を走らせて、
海岸をどんどん歩いたり、山をぐんぐん歩いたりしながら、
ふと考えたのだけれど

私たちはたぶん、いろいろなことを自分で決めようとしている。
決められると思っているし、
自分で考えて決定できる人になろうと望んで、努力している。
それは必要なことだし、素敵なことだと思う。
大人になる過程では特に、必要なことだとも思う。
だけど、この人生の中でどれだけのことが自分で決められることなのだろう。

例えば、自分自身の名前すら、自分で決めていない。
与えられた名前を自分の名としていただき、
生まれた場所も家族も、自分自身の選択ではないけれど
当たり前のように、愛情を受け、一緒に暮らしてきた。
自分が選んだわけでもないのに、そうなんだ。

私が絵描きになったことも、自分で決めたことというより
必然、そうなった。
他者が決めたわけでもなく、私は私自身の気持ちとして、
絵を描くということから逃れられないものがあった。
獣に喰われかけて必死にのたうちまわるように、なんとか描いて来ただけ。
でもどんな思いがそこにあっても、関係なしに
私の絵や私自身を好く人もいれば、好かない人もいる。
努力も望みも関係なく、好かれない場合は好かれない。
自分ではそれはどうにもできない。
(もちろん好いてくれるひともいます。本当にありがとう、嬉しい)

いまここにいることの理由や、将来のことも考える。
いろいろな道があることも分かる。
どこかにしがみつく気持ちはないから、道はそれこそ無限に広がっている気もする。
でも、どこかで、しがみつきでもない、しがらみでもない、細い糸が
わたしにそっと触れている気がする。


どこにでも行けるけれど、
あえてここにいるというのは必然?
私の名前は何にでもなったはず、だけど今のこの名を受けたように、
自分では選びようもなく、いつのまにか選ばれて在る、その不思議の糸に、
自分自身忘れていて気がつかなければいけないものや、
注意深く気をつけていなければいけないものが
あるような気がした。


何でも自分で選んで決めていくことは
近代的で、自立していて、ほんとに素晴らしい。でも
その一方で、自分が選択しないでもそこに存在するものや、受容できずにいるものにさえ、
受け入れて共に在ること、
あるいは、
在るということを、受け入れること。

それはひょっとしたら、
自分でどんどん決めていくよりも、もっと難しくて、
でもきっと、もっと必要なことなんだ。




銀化・秋の別所jpg.gif

秋の真っ直中にいて、遠く澄んだ空などを見ていると少し
漱石の「草枕」などに出てくる若い絵描きの言葉を考えてみたり。


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越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

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画家という使命‥。
この若い絵描きは言葉を尽くして自分の今/社会の今を表現してる。
ここで漱石が、画家の使命は「降る」と表現しているからには
画家って、やはり「受け取る者」なのではないかしらと思う。
たとえば秋の空の下、天から降ってくる何かを受け取って、
それを自分というフィルターを通して生まれる表現にして、つむいでゆく者なのではないのかな。
私はきっと、アニミズム的であると思う。
宗教でなくても、尊い気持ちが降りてきて自分を貫いて、まるで巫女のように、舞うように、表現に変換したくなる。

リルケの詩「秋」はキリスト教的とも読めるけれど、
もし宗教というものをまったく知らない人物が最期の一行を読んだら
一体この手の存在を、どう捉えるかしら。



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秋 

(富士川英郎訳)

木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる

そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる

われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある

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活版印刷には以前から興味がありました。
宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』には、
ジョバンニが活字を拾う(アルバイト?)のシーンがあります。

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 家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲がってある大きな活版所にはいって、靴をぬいで上がりますと、突き当たりの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついて、たくさんの輪転機がばたり、ばたりとまわり、きれで頭をしばったり、ラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いておりました。
 ジョバンニはすぐ入り口から三番目の高いテーブルにすわった人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と言いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人のテーブルの足もとから一つの小さな平たい箱をとりだして、向こうの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁のすみの所へしゃがみ込むと、小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。
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このシーンを読んだとき、粟粒ぐらいの活字を拾うという行為がとても神聖なものに感じられたものです。
まさしく言葉を一心に拾い集めて、ことだまを宿しているような行いにも見えますね。

実際にやってみると、うん、確かにこれは一字一字に心を遣う作業。
漢字の一つを、膨大な量の活字の中から探すというのは、ほんとうにその字を求める気持ちがなければ、けっこう途中でいやになってしまうかもしれません。
そのぐらいの労力がいる作業。なんといってもキーボードで打つのとは違います。
粟粒の文字たちを「何か歌うように読んだり数えたりしながら」というのは、つい、そうなってしまうもの。
口ずさみつつ、無心になっているんですね。

私は、名刺大の文章に使う活字を拾うのに一時間半。一枚ずつ刷り上げるのにまた一時間半かかりました。
当然ながら、とても肩がこり、目が乾きました。
ジョバンニも、「何べんも目をぬぐいながら活字をだんだんにひろ」ったと、記述があります。
「小さな平たい箱」の中にはる活字を拾ったとあるから、ジョバンニはアルファベットの文字を拾っていたのかも知れません。
並び合った「p」と「q」、「i」と「j」には、きっと彼も苦労したに違いない。


活版の作品も、次回の個展でお目見えの予定です。


2010_11_09活版印刷300.gif


画像-2009京都.jpg.gif


チリの鉱山落盤事故で救出された作業員エディソン・ペニャさんが、
今月7日のニューヨークシティ・マラソンにランナーとして参加するそうです。

ペニャさんは坑道内で毎日10㎞走り続けていたそう。
その気力だけでも驚くのに、フルマラソン出場ですよ。
しかも、大会主催者は、ほんとは「ゴールテープを持つ来賓」として招待してたそう。
でもペニャさんには走りたいという強い希望があり、
「来賓」なんかじゃなくて、参加することになったということだそうです。

自分の希望を具現化するチカラは、長く暗い地下の生活で、たゆまずに走り続けたことから生まれたのかしら。
自分は「来賓」なんかじゃない、「走るんだ」って。

かっこいい。
すごいニュースですね。朝からひとしきり感心しています。

今日は文化の日

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今日は文化の日です。
文化の日ってなんだっけ?
調べてみましょうか。
文化の日(ぶんかのひ)は、日本の国民の祝日の一つで、日付は11月3日である。国民の祝日に関する法律(「祝日法」)では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。
(http://ja.wikipedia.org/で調べました)

法律で、「自由と平和を愛」することをすすめられていたんですね。
自由と平和を愛しかつ、文化をすすめるのか?
自由と平和を愛することによって、文化をすすめるのか?どういう文脈になるんでしょうね。

さて、秋晴れの町に出掛けましょう。

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