秋の真っ直中にいて、遠く澄んだ空などを見ていると少し
漱石の「草枕」などに出てくる若い絵描きの言葉を考えてみたり。
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越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。
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画家という使命‥。
この若い絵描きは言葉を尽くして自分の今/社会の今を表現してる。
ここで漱石が、画家の使命は「降る」と表現しているからには
画家って、やはり「受け取る者」なのではないかしらと思う。
たとえば秋の空の下、天から降ってくる何かを受け取って、
それを自分というフィルターを通して生まれる表現にして、つむいでゆく者なのではないのかな。
私はきっと、アニミズム的であると思う。
宗教でなくても、尊い気持ちが降りてきて自分を貫いて、まるで巫女のように、舞うように、表現に変換したくなる。
リルケの詩「秋」はキリスト教的とも読めるけれど、
もし宗教というものをまったく知らない人物が最期の一行を読んだら
一体この手の存在を、どう捉えるかしら。
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秋
(富士川英郎訳)
木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生が枯れたように
木の葉は否定の身ぶりで落ちる
そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
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