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私に触れる細い糸

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秋の鎌倉・逗子・葉山へ.gif

今日はちょっと遠くまで車を走らせて、
海岸をどんどん歩いたり、山をぐんぐん歩いたりしながら、
ふと考えたのだけれど

私たちはたぶん、いろいろなことを自分で決めようとしている。
決められると思っているし、
自分で考えて決定できる人になろうと望んで、努力している。
それは必要なことだし、素敵なことだと思う。
大人になる過程では特に、必要なことだとも思う。
だけど、この人生の中でどれだけのことが自分で決められることなのだろう。

例えば、自分自身の名前すら、自分で決めていない。
与えられた名前を自分の名としていただき、
生まれた場所も家族も、自分自身の選択ではないけれど
当たり前のように、愛情を受け、一緒に暮らしてきた。
自分が選んだわけでもないのに、そうなんだ。

私が絵描きになったことも、自分で決めたことというより
必然、そうなった。
他者が決めたわけでもなく、私は私自身の気持ちとして、
絵を描くということから逃れられないものがあった。
獣に喰われかけて必死にのたうちまわるように、なんとか描いて来ただけ。
でもどんな思いがそこにあっても、関係なしに
私の絵や私自身を好く人もいれば、好かない人もいる。
努力も望みも関係なく、好かれない場合は好かれない。
自分ではそれはどうにもできない。
(もちろん好いてくれるひともいます。本当にありがとう、嬉しい)

いまここにいることの理由や、将来のことも考える。
いろいろな道があることも分かる。
どこかにしがみつく気持ちはないから、道はそれこそ無限に広がっている気もする。
でも、どこかで、しがみつきでもない、しがらみでもない、細い糸が
わたしにそっと触れている気がする。


どこにでも行けるけれど、
あえてここにいるというのは必然?
私の名前は何にでもなったはず、だけど今のこの名を受けたように、
自分では選びようもなく、いつのまにか選ばれて在る、その不思議の糸に、
自分自身忘れていて気がつかなければいけないものや、
注意深く気をつけていなければいけないものが
あるような気がした。


何でも自分で選んで決めていくことは
近代的で、自立していて、ほんとに素晴らしい。でも
その一方で、自分が選択しないでもそこに存在するものや、受容できずにいるものにさえ、
受け入れて共に在ること、
あるいは、
在るということを、受け入れること。

それはひょっとしたら、
自分でどんどん決めていくよりも、もっと難しくて、
でもきっと、もっと必要なことなんだ。




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このページは、seikoが2010年11月28日 23:24に書いたブログ記事です。

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